指定文化財一覧

更新日:2023年01月23日

金工彫金作家 山本 晃

重要無形文化財(彫金)保持者(人間国宝)

指定年月日

平成26年10月23日

場所

光市中央二丁目

山本 晃さんが作品の制作をしている写真
楕円形の蓋つきの容器、まるい蓋つきの容器、湯呑のような形の山本さんの作品の写真

 金工(きんこう)作家としてのデビューは、昭和51年(1976)の山口県美術展覧会の入選である。
 切嵌象嵌(きりばめぞうがん)及び接合(はぎあわ)せという金工の技法は、重要無形文化財保持者(人間国宝)の鍛金家・奥山峰石(東京都、平成7年(1995)認定)や彫金家・増田三男(埼玉県、平成3年(1991)認定)との交流はあるものの山本氏の独創であり、昭和60年(1985)以来、平成19年(2007)までの日本伝統工芸展、連続23回の入選という快挙にその評価が如実に示されている。昭和62年(1987)には同展NHK会長賞、翌年には同展日本工芸会奨励賞と連続受賞をはたす。これまでに文化庁、宮内庁等の買い上げがある。
 従来からある素材に加えて、独自に比率を変えた合金を開発することにより微妙に色の違う素材を得て、模様に繊細なグラデーションを確立させた。日本の四季が織りなす自然の風物を題材に、「冷たい金属に豊かな詩情を感じさせる」ことを目指し制作にいそしむとともに、山口芸術短期大学の教壇などにも立って、後進の指導にも熱心に取り組み、現在ではその教え子達が第一線で活躍している。
 平成14年には山口県指定無形文化財保持者に、平成26年には「彫金」の分野において重要無形文化財保持者いわゆる人間国宝に追加認定される。

石城神社本殿(1棟)附 宮殿(1基) 棟札(2枚)

国指定重要文化財(建造物)

指定年月日

明治40年5月27日(昭和54年2月3日追加)

場所

光市大字塩田字石城 (石城神社)

柵の向こうに建っている木造の石城神社本殿の写真

 石城神社は延喜式内社で、由緒ある神社である。祭神は大山祗神(おおやまづみのかみ)・雷神(いかづちのかみ)・高龗神(たかおかみのかみ)で、武事・鉱山・農林の神をお祀りしている。旧号を三社権現といっていたが、明治元年(1868) 石城神社と改称した。
 石城神社の創建は明らかでないが、社伝によると、敏達天皇3年(574)の鎮座といわれ、天皇の勅額と伝えられる「石城宮」も保存されている。

宮殿の写真

宮殿(くうでん)

棟札の写真

棟札(左:明暦2年、右:寛政10年)

 本殿は、文明元年(1469)大内政弘が再建したものと伝えられている。桁行5.54メートル、梁間2.85メートル、正面入母屋造り、背面切妻造り妻入り、こけら葺、四囲に縁をめぐらせた春日造りである。柱面のとり方、勾欄(こうらん)のそり方、斗栱(ときょう)、蟇股(かえるまた)等に室町時代の特色を残している。
 大正10年(1921)解体修理、昭和58・59年(1983・84)屋根葺替、令和4年(2022)屋根葺替を行う。
 明治40年(1907)5月27日に特別保護建造物に指定され、昭和4年(1929)7月1日国宝に、同25年(1950)8月29日に重要文化財の指定を受けた。また、昭和54年(1979)2月3日に宮殿及び棟札(2枚)もあわせて文化財に指定された。

銅鐘(1口)

国指定重要文化財(工芸品)

指定年月日

昭和14年10月25日

場所

光市三井一丁目22番1号(賀茂神社)

天井からつるされた銅鐘の写真

 賀茂神社の銅鐘は朝鮮鐘である。龍頭(りゅうず)に旗挿(はたさし)を作り、肩と口辺に唐草模様の帯をめぐらし、胴部には飛天を陽鋳するなど朝鮮鐘の特色をよく備えている。4区の乳廓(にゅうかく)には各3段3列の乳を配し、2個の撞座(つきざ) は複弁式の八葉蓮華文で、周囲に連珠文をめぐらしている。
 胴部には飛天のほか銘文として、「諸行無常/是生滅法/生滅々已/寂滅為楽」と4行にわたって『涅槃経』の一節を記し、これに続けて、「周防州三井村賀茂/霊祠撞鐘也/貞治六年丁未三月十五日/大願主沙弥性心/沙弥智善/領主」と陰刻している。南北朝時代の貞治6年(1367)に沙弥性心と智善が願主となってこの鐘を奉納したことが知られるが、彼らの俗名は未詳である。
 わが国に現存する朝鮮鐘は42口を数えるが、その中で渡来後銘を追刻した朝鮮鐘は17口ばかりある。賀茂神社の鐘はその最古銘を持つことで有名である。
 総高 67.9センチメートル 口径 43.0センチメートル 口厚 3.8センチメートル

石城山神籠石

国指定史跡

指定年月日

昭和10年6月7日

場所

光市大字塩田字石城、字山中

大きな石が一列の帯状に並べられている写真
沢山の大きな石を敷き詰めて作った高い石垣壁の写真

 「神籠石」とは、巨石を一列の帯状に並べて、山の中腹から8合目あたりをはち巻状に取り囲んでいる古代の大土木工事の遺跡につけられた名称である。
 石城山の「神籠石」は明治42年(1909)秋、郡視学西原為吉氏(現福岡県みやま市出身)によって発見され、それまで、九州にしか存在しないとされていたこの大遺跡が本州でも発見されたので、考古学界の注目するところとなった。
 この「神籠石」の列石線は、南側鶴ヶ峰(標高354メートルで現在テレビ塔が立っている。)近く(標高約342メートル)を頂点として下向きに回り、石城五峰(高日ヶ峰・星ヶ峰・鶴ヶ峰・築ヶ峰・大峰)を取り囲み、最下部は北水門あたりで、標高約268メートルまで下っている。列石線の総延長は2,533メートルにもおよぶ大規模なものである。
 列石線が谷間を横切る場所には、高い石垣壁を築き、その中央下部に水門を設け、北水門と東水門と南水門と西水門が発見されている。城門は、表門と裏門に当たるとみられる遺構が発見され、第一門跡には「沓石」と呼ばれる2個の門扉の柱礎石が残っている。
 「神籠石」をいつ頃、だれが、何の目的で構築したかについては、長く定説がなく、神域説と山城説とで論争されてきたが、昭和38・39年(1963・64)、国の文化財保護委員会(現文化庁)・山口県教育委員会・大和村(現光市)との共同による発掘調査の結果、従来知られていなかった空濠・柱穴・版築工法による大土塁が、数百メートルにわたり発見され、神籠石式古代山城の一つであるといわれるようになった。

峨嵋山樹林

国指定天然記念物

指定年月日

昭和7年4月25日

場所

光市大字室積村字普賢山2601番1

青い海に突き出た岬にそびえ立つ山々の写真
一本の山道の両脇に木々が鬱蒼と生い茂っている写真

 室積の象鼻ヶ岬にそびえる峨嵋山は海抜117メートルの低山であるが、その山容が中国四川省の峨眉山に似ているところから命名されたといわれる。湾外の周防灘に面した海岸線は断崖絶壁をなし、奇岩怪石に富む景勝地としても知られている。
 峨嵋山の植生は主木だったアカマツが枯死し、今は暖帯林の構成種である常緑広葉樹が優占している。杵崎神社北側のスダジイ群落が一番よく発達している。各所で、暖地性常緑広葉樹のシイノキ(主にスダジイ)・タブノキ・モチノキ・ヤマモモ・コバンモチ・クロガネモチなどや、暖地性低草のオオカグマ・ベニシダ・ツルコウジなどが見られる。特にヤマモモの巨木群や貴重種カンザブロウノキの群生は注目すべきものである。今日まで数百種類の樹木や野草が植生するのは、峨嵋山一帯が江戸時代には萩藩直轄の御立山であり、人々のみだりな入山を禁じたためであろう。なお、近年マツクイムシや度重なる台風の被害で残念ながらマツが多く枯死した。
 昭和2年(1927)、峨嵋山一帯は大阪毎日新聞主催の日本新八景百選の第7位に選ばれ、7年には樹林が国の天然記念物に指定された。また、15年には山口県が峨嵋山周辺34町歩を買収して県立室積公園とし、戦後の31年(1956)5月には瀬戸内海国立公園区域に追加指定となった。

旧伊藤博文邸(1棟)付 棟札(1枚)

県指定有形文化財(建造物)

指定年月日

平成5年1月12日

場所

光市大字束荷2317番2(伊藤公資料館)

大きな木の横に建っている、白い外壁に大きな窓がある旧伊藤博文邸の写真

 通称「伊藤公記念館」と呼ばれている旧伊藤博文邸は、伊藤博文が林家の始祖林淡路守通起の300年祭を行うため、博文自らの基本設計に基づき、当時の山口県知事渡辺融と百十銀行頭取室田義文が監督し、下関清水組が請け負って、明治 42年(1909)3月1日着工し、翌43年5月に完工したルネッサンス風の2階建延べ280平方メートルの建物である。
 全体的には洋風建築であるが、2階西面に8畳・6畳の和室とその西・南側に廊下、北面に和式便所を設ける等、2階全体の西側半分ほどを和風としている。
 博文は不幸にして、明治42年10月26日中国東北地区ハルビン駅頭において凶弾に倒れ、この建物を見ることはできなかったが、嗣子博邦がその志をついで明治43年11月13日本邸において300年祭を執行した。
 建物は、後に伊藤家から山口県へ寄贈されたが、昭和27年(1952)山口県から大和町(現光市)に無償払い下げされ、平成16年(2004)2月に大規模な補修工事を終え、現在は旧伊藤博文邸として公開し、伊藤公記念公園のシンボルとなっている。

棟札の表面の写真

棟札

棟札の裏面の写真

棟札

 棟札は、棟上げの時、工事の由緒、建築の年月、建築者または工匠の名などを記して棟木に打ち付ける札で、頭部の多くは山形をなしている。
 旧博文邸の棟札は、桧材を使用し、両面は丁寧に鉋がけして、表面に「岡象女神 棟梁清水満之助 奉上棟大元尊神家運長久榮昌守護所 五帝龍神」、裏面に「明治四拾貳己酉年十月吉祥日」と書いている。

木造阿弥陀如来坐像(1躯)

県指定有形文化財(彫刻)

指定年月日

昭和57年4月16日

場所

光市大字束荷2250番地の1(伊藤公資料館)

台座の上に胡坐をかいて座っている木造阿弥陀如来坐像の写真

 この像は、往古は真言宗吉祥院の本尊として祀られていた。同院は江戸時代の初めに、伊藤博文の始祖林淡路守通起の菩提寺となり、真宗に改宗して林照寺と改めた。
 ところが、明治維新後、塩田村の光明寺に合併して廃寺になり、本尊であるこの像が行方不明となったが、明治24年(1891) に再発見され、縁あって大正7年(1918)束荷村に戻された。その後、伊藤公旧宅に安置されていたが、平成9年(1997) に旧宅の同敷地内に隣接して建設された伊藤公資料館に移して一般に公開している。

 像は高さ90.4センチメートル、膝張71.6センチメートルで、上品下生印(来迎印)をとり、桧材の一本造りで、躰部のみ内刳(うちぐり) を施し、膝前部は別材で矧(は)いでいる。台座は高さ62センチメートルで、桧材の七重蓮華座である。像の一部には虫食い穴があり、左手首先は欠出している。また、台座には一部補修がある。
 制作期は像・台座とも平安時代後期のものと思われ、台座表面に室町期の寛正2年(1461)の修理銘がある。地方作であるが、台座を含めて造像当時のものが遺存している例は少なく、防長彫刻史の資料上価値が高い。

島田人形浄瑠璃芝居

県指定無形民俗文化財

指定年月日

昭和51年3月16日

場所

光市島田四丁目13番15号(島田人形浄瑠璃芝居保存会)

舞台上で演じられている人形浄瑠璃と人形を操る黒子の写真

 人形浄瑠璃は浄瑠璃や三味線に合わせて曲中人物に扮装した人形を操る日本固有の人形劇で、江戸時代中期に近松門左衛門や竹本義太夫の出現以後独自の劇形式が完成した。
 島田人形浄瑠璃芝居については天保年間(1830~43)に萩藩が編修した地誌である『防長風土注進案』に、「六月十五日は祇園祭として五穀成就、牛馬安全の為め社参祈念等仕り休足仕り候(中略)中古より祇園社の境内に於て一両夜宛操り狂言仕り来り申し候事」とあり、熊野神社の境内末社である松浦神社(祇園社)への奉納芸能として伝承されてきた。
 松浦神社のある島田4丁目の南一帯の島田市は江戸時代に「島田百軒」と称されるほどの賑わいを見せ、このうち本頭(ほんとう) 20~30軒で人形使いと浄瑠璃を世襲し、本頭から頭屋(とうや)2軒、本頭以外から脇頭屋4軒を選んで小屋掛けや雑用にあて、氏子中から春は麦、秋は籾を各1升ずつを集めて奉納上演の費用としていた。昭和30年(1955)に境内の一角に舞台が作られ、 39年(1964)には保存会が結成された。47年(1972)に光市民ホールが完成してからは、ここでの上演を氏子全体で行っている。上演期日は旧暦の6月14・15日に行っていたが、昭和39年から新暦の8月4・5日の両日に改められた。

侍の浄瑠璃人形の写真
赤い着物を着て日本髪を結っている浄瑠璃人形の写真

 人形は3人使いの淡路系のものが約80体現存し、この中には江戸時代文化年間(1804~17)の大江万造作源太首をはじめ、笹屋喜作・天狗久(天狗屋久吉)・由良亀・人形富など作者がわかっている作品も現存する。衣装は寛政年間(1789~1800)に新調奉納した源義家の直垂(ひたたれ)など約200点と、行灯や三味線などの小道具も保存されている。なお、人形の一部は光市民ホールに常設展示されている。

普賢寺庭園

県指定名勝

指定年月日

平成6年5月2日

場所

光市室積八丁目6番1号(普賢寺)

手入れされた植木が並ぶ庭園の写真

 寺伝によると普賢寺は平安時代、寛弘3年(1006)の創建で、開山は播州書写山円教寺の性空上人(910~1007)といわれる。本尊の普賢菩薩像は海中から出現したという生身の霊仏で、古来海の守護仏として漁民や海上航行者に尊崇されている。普賢寺も一説によると当初は大峰山中に小庵を営む天台宗の寺院であったが、その後山麓の市延に移築され、更に室町時代後期ごろに現在地に移って、宗派も臨済宗に変わったと考えられている。
 普賢寺方丈の南庭に雪舟の築造と伝えられる枯山水の庭園がある。方丈側から向かって左奥に三尊石組による枯滝を組み、前面を池に見立てた枯池式枯山水の庭園で、正方形地割部分で約455平方メートルの広さを有している。枯滝を中心にして左に高さ95センチメートル、長さ450センチメートルの山形の横石を据えて遠近感を強調、また横石の前面は海景となり、石組みは小振りで弱くなっている。現在マキの生け垣となっている周囲には土塀が一部残っており、庭園が西側からも観賞できる構成となるなど、注目すべき点が多い。
 本庭のような枯山水庭園の築造が本格化するのは雪舟以降であるが、その早い時期の作庭として高く評価されている。

光のクサフグ産卵地

県指定天然記念物

指定年月日

昭和44年2月4日

場所

光市大字室積村字普賢山

産卵のために集まったクサフグの群れの写真

 クサフグは体長約15センチメートルとトラフグ属の中では最も小形で、腹部は白いが背部は淡灰青色をし、淡黄色の小円点が多数ある。本州中部以南の沿岸に多く生息し、毒性が強いことでも知られている。このクサフグが毎年産卵のために、室積半島の南側沿岸、杵崎鼻から赤崎鼻にかけての海岸にやってくる。

 産卵期は毎年5月中旬から7月上旬の間で、この時期にクサフグの産卵を観察できる。盛期は5月下旬から6月中旬で、産卵日は太陰暦の朔(さく)または望(ぼう)の1日ないし4日前である。産卵床となる海岸は水深20~40センチメートルと浅く、産卵盛期になると礫石(れきせき)の間に魚の姿が認められるようになる。
 産卵日には満潮時の2、3時間前に、メスが小石のすき間に卵を産みつけ、これにオスが放精して受精が行われる。このため産卵時には海面が精液で白く濁ってくる。産卵は日没前に止み、満潮と共にクサフグの群れは海中に消えていくが、卵は磯波で洗い流され、下層の砂利層の中に入り込んでいく。ここで適度な水分と太陽熱を得て、3、4日後には孵化し、大潮にのって沖へ泳ぎ出ていく。

牛島のモクゲンジ群生地

県指定天然記念物

指定年月日

平成10年4月14日

場所

光市大字牛島

黄色い花を咲かせたモクゲンジの写真

 牛島は室積港から連絡船で20分ばかりの離島で、この島の周防灘に面した南斜面を中心にモクゲンジが分布植生している。モクゲンジはムクロジ科の植物で、落葉小高木。中国では墓地に植えたり、日本でもしばしば寺院境内で発見されたりする。福井県から島根県の日本海沿岸近くに野生状態で植生するが、真の自生かは疑問である。
 牛島のモクゲンジは昭和10年(1935)東京大学の中井猛之進、前川文夫両氏によって採集され、本州初の発見として紹介された。現在の植生状態は目通り直径25センチメートル以上の大木は見られないものの、分布の広さと本数では他所に優っており、自然植生の一大群落としてモクゲンジの分布上極めて貴重である。花は黄色の両性花で7月上旬が最盛期、種子は黒色で固いため、念珠に用いたりする。

島田三尊種子板碑(1基)

市指定有形文化財(建造物)

指定年月日

昭和51年7月14日

場所

光市中島田二丁目1902番

大きな石碑とその横に建っている看板の写真

 花崗岩の自然石を粗く削り、これに梵字種子(しゅじ)と紀年銘を刻した自然石碑である。島田林集落の三尊種子板碑は地上高 206センチメートル、塔身は下方で横幅60センチメートル前後の三角錐状をなし、上方にいくにしたがって標識のある正面のみ広さを保ち、他の2面は幅が狭くなっている。ただし頭部は圭角をなさず、横2条の切れ込みもない。
 主尊は地蔵種子を中心に、右下に薬師如来、左下に観音菩薩の種子を各月輪内に刻している。紀年銘は主尊の下方に「明徳二年辛未六月 日」とある。明徳2年は北朝の年号で西暦1391年、また、その記載形式からして南北朝期の造立とみて間違いない。板碑は県内で50数基発見されているが、光市内では唯一の遺品である。

清水宗治主従の供養塔(宝篋印塔 4基・石殿 3基・基壇 1基)

市指定有形文化財(建造物)

指定年月日

昭和58年7月26日

場所

光市浅江二丁目1番14号(清鏡寺)

清水宗治主従の供養塔の写真
平屋づくりで正面に階段がある清鏡寺本堂の写真

 清鏡寺本堂裏手の西側に玉垣を造り、その正面奥に宝篋印塔(ほうきょういんとう)1基と石殿3基、左側に小宝篋印塔3基、右側手前に宝篋印塔の基壇1基を安置している。正面奥の宝篋印塔は中形の完存品であるが、左側の3基はいずれも小形の遺品であり、石殿も軸部が破損している。
 宝篋印塔・石殿とも無銘であるが、室町時代末期から江戸時代初期ごろのもので、『防長風土注進案』に「高松において殉死之御方孰も御廟之傍に石塔御座候」とあることと符合する。つまり、これらの石塔は、天正10年(1582)6月に羽柴秀吉の水攻めにあって備中高松城に没した清水宗治とその家臣の供養塔である。 宗治の嗣子景治は毛利氏に属して、光市内の野原や立野を領し、吉祥寺を清鏡寺と改め自家の香花所とした。清鏡寺には宗治が使用した陣鐘や鐙も保存されている。

宝篋印塔(正面奥のもの)
  • 総高 144センチメートル
  • 安山岩製
石殿(正面奥の3基)
  • 右側 高さ 70.5センチメートル
  • 中央 高さ 79.5センチメートル
  • 左側 高さ 108.0センチメートル
  • 安山岩製

木造十一面観世音菩薩立像(1躯)

市指定有形文化財(彫刻)

指定年月日

昭和59年12月7日

場所

光市大字束荷1622番地(慶宝寺)

右手は体にそって下げ、左手は前方に上げ、蓮台上に立っている木造十一面観世音菩薩立像の写真

 髻頂(けいちょう)に仏面をいただき、頭上面十面(五面欠落)を天冠台上の地髪に二段に配し、右手は体にそって下げ、左手は前方に上げ、宝びんを執り、条帛(じょうはく)、天衣(てんね)、裳(も)をつけ蓮台上に立っている。
 像高68センチメートル。桧材の一本造り。彫眼、頭、体の主幹部を右腕及び左腕の上はく部を含めて、堅一材から彫り出し、内刳りはしていない。部分的に修理が加えられている。制作年代は明らかではないが、低い宝髻(ほうけい)、豊満な円相、肉づきのよいがっしりした体躯、比較的彫りの深い衣文などから、その制作は藤原時代(平安時代後期)中頃にさかのぼるものと推定される。
 由来・沿革として、『防長寺社由来』の慶宝寺の条に「一 寺内観音堂有之、十一面観音、運慶の作と申伝候事」とあるのがこれにあたる。

木造薬師如来坐像(1躯)

市指定有形文化財(彫刻)

指定年月日

平成4年2月26日

場所

光市大字三輪8番地の1(称名院)

右手は前方に立て左手は膝上で薬壷をもって蓮台上に胡坐をかいて座っている木造薬師如来坐像の写真

 称名院は、元は浄土宗の寺であったが今は無住で、市町内会により管理されている。本尊仏は阿弥陀如来(別掲の市指定文化財「木造阿弥陀如来坐像」)であるが、この地方一帯は、往古より石城山神護寺を中心に薬師信仰が盛んで、この称名院の薬師如来もそのうちの一つで、霊験あらたかとして信仰を集めてきた。
 如来は、衲衣(のうえ)を偏袒右肩(へんたんうけん)につけ、右手は前方に立て施無畏印(せむいいん)を結び、左手は膝上で薬壷を執り、蓮台上に結跏趺坐(けっかふざ)している。桧材の寄木造り。
 高い肉(にっ)髻(けい)、直線の髪際線、下ぶくれの円相、盛り上る三道、がっしりとした肩、張りのある豊かな体躯、流麗な衣文線、内刳りに見られる太くて粗いノミ跡など、藤原時代(平安時代後期)末期の特色が見られるが、膝厚は比較的薄く、特に形式化の著しい膝前の衣文のたたみ方などから、その制作は藤原末期(平安末期)から鎌倉初期ごろと思われる。
 保存状態は必ずしも良好とはいえないが、制作の時代が古く、この地方の古代の信仰を知る好古の資料として重要である。

木造阿弥陀如来坐像(1躯)

市指定有形文化財(彫刻)

指定年月日

平成4年2月26日

場所

光市大字三輪8番地の1(称名院)

両手を胸前にあげ、人差し指と親指をくっつけて蓮台上に胡坐をかいて座っている木造阿弥陀如来坐像の写真

 称名院の本尊仏で、『防長寺社由来』に「一 本尊阿弥陀仏、但座像御長弐尺壱寸、尤古仏と申伝候、脇立観音勢至、但新仏立像御長壱尺五寸」とあるのがこれにあたる。
 衲衣を偏袒右肩(へんたんうけん)につけ、両手を胸前にあげ、中品中生の印を結び、蓮台上に結跏趺坐(けっかふざ) している。桧材の寄木造り。
 肉(にっ)髻(けい)の盛り上りは低く、髪際はわずかにカーブする。切長の眼、小鼻の張った筋の通った鼻、口元をひきしめた整った面相である。胸も豊かでたっぷりとした体躯である。衣文線は写実的でおおらかであるが、形式化が目立つ。内刳りに見られる小丸刀の整然とした削り跡などからその制作は鎌倉時代後期ごろと見られる。
 まとまりのよい整った都ぶりの像で、中品中生印を結ぶ阿弥陀如来像は県下では珍しい。

銅造虚空蔵菩薩立像(1躯)・銅造厨子(1基)

市指定有形文化財(彫刻)

指定年月日

平成10年7月9日

場所

光市大字束荷2250番地の1(伊藤公資料館)

蓮台上に立っている銅造虚空蔵菩薩立像の写真

 虚空蔵菩薩立像は、高さ8.3センチメートルの銅製で、南北朝時代に藤原藤房が、楠正成・正行父子の死を弔うために鋳造したといわれ、台座の背面に「侃山拝」の陰刻のある念持仏である。藤房は、本像を銅製の厨子(高さ11.0センチメートル)に納め、首にかけて全国を行脚してまわったという。
 初代総理大臣の伊藤博文は、この念持仏を鎌倉八幡宮の宮司である箱崎氏から手に入れ、守り本尊として肌身離さず携帯していた。博文が明治42年(1909)中国東北地区のハルビン駅で暗殺された後、念持仏も日本に持ち帰られた。その後、ソウル市の博文寺に安置されたが、終戦時に再び日本に運ばれ、平成4年(1992)大和町に寄贈された。

八海観音堂の鰐口(1口)

市指定有形文化財(工芸品)

指定年月日

昭和51年7月14日

場所

光市大字光井818番地

青銅製のまるい形をした八海観音堂の鰐口の写真

 青銅製の中型鰐口で、肩の左右に突き出た耳に鉄の輪を通して釣りさげる。釣環の下方の目は、胴の付け根から水平に突き出て、直径4.3センチメートルの円筒形をなし、開口部は2.0センチメートルと狭く、その縁の唇は平板である。
 鼓面は、2、3重の圏線によって撞座区(つきざく)・中区・銘帯の3区に分かれ、撞座区と中区は無文であるが、外側の銘帯には表裏とも刻銘がある。表面上部に阿弥陀三尊種子を刻し、「奉懸潮音寺御宝前鰐口之事」(左側)「右祈念者大檀那各人現世安穏後生善處者也」(右側)とあり、裏面には「具一切功徳慈眼視衆生福聚海無量是故應頂礼」(左側)、「干時永正十七庚辰卯月吉日 願主沙門 敬白」(右側)とある。永正17年(1520)、潮音寺に寄進された鰐口がどのような事情で八海観音堂に移されたかは定かでない。
 (鼓面径 33.5センチメートル 厚さ 10.8センチメートル)

銅造梵鐘(1口)

市指定有形文化財(工芸品)

指定年月日

昭和57年4月22日

場所

光市大字塩田796番地(正讃寺)

銅造梵鐘の写真

 この梵鐘は、初め石城神社の社坊であった神護寺に懸吊されていたが、明治維新の神仏分離により神護寺が廃寺となり、明治12年(1879)、地元の正讃寺に買い取られ現在に至っている。
 享保20年(1735)5月9日に神護寺の惣氏子中が施主となって同寺に奉納したもので、冶工は三田尻(防府市)の鋳物師、郡司貞右衛門尉藤原信勝である。
 この梵鐘の特徴は、竜頭(りゅうず)が単頭で旗挿を持ち、鐘身部に袈裟襷を施さない完全な朝鮮鐘の形式である。
 和鐘に朝鮮鐘の特色を加味した、いわゆる和韓折衷式の梵鐘は幾例かが知られているが、この鐘のようにほとんど完全に朝鮮鐘を模倣した梵鐘は県下では他に類例がない。防長鋳金史上注目すべき資料である。法量は総高122.7センチメートル。

金銅十一面観世音菩薩坐像懸仏(2面)

市指定有形文化財(工芸品)

指定年月日

昭和58年7月26日

場所

光市光井九丁目18番2号(光市文化センター保管)

十一面観世音菩薩の坐像が描かれている、薄い銅製円板2枚の写真

 懸仏はインドの仏が姿を変えて日本の神々に生まれ変わったという本地垂迹説に基づいて作られたものである。
 冠天満宮には懸仏が2面伝わっているが、ともに銘はない。写真に向かって右側は、薄い銅製円板に覆輪(ふくりん)をつけ、裏には桧の木板、左右の肩に釣環を設けている。鏡面は中央上部に天蓋を打ちつけ、その下に天神の御正体である十一面観世音菩薩の坐像を安置している。仏像は鋳上がりもよく、頭部を丸彫りとする立体的手法や花瓶(けびょう)を取り付けただけの装飾性の少ない鏡面、がっしりとした釣環を持つ鐶座様式などから、鎌倉時代の製作と考えられている。
 (鏡板直径31.4センチメートル、仏像総高19.2センチメートル)
 写真向かって左側は、薄い銅の円板を木板にはり、覆輪をめぐらしている。中心の仏像は頂上に仏面、天冠台上に10面の菩薩面を一列に配置する。ただし、仏像の鋳成は薄手で、一列に並ぶ頭上面の表現も形式的であり、右側の遺品よりは製作年代が下って南北朝期から室町初期ごろと推定される。
  (鏡板直径34.6センチメートル、仏像総高14.0センチメートル)

光井八海の鰐口(1口)

市指定有形文化財(工芸品)

指定年月日

平成3年3月20日

場所

光市光井八海

光井八海の鰐口の写真

 鼓面ふくらみが少ない小型の鰐口で、肩、胴の中央線に表裏の鋳型を合わせた跡が突起となって残っている。肩の左右に比較的大きな耳が突出し、鉄製の吊環を付帯している。また、耳の下には筒状の目が突き出て、目から下方は口の部分となっている。
 撞座区(つきざく)・中区・銘帯に細い隆起圏線をめぐらして3区に分かち、撞座区・中区とも無文である。銘帯には表面に「敬白奉鋳鰐口一口冨田保/四熊生原浄土寺」、裏面に「應永三十年癸卯六月一日/願主善祐敬白」と陰刻している。この銘文から、鰐口は室町時代中期の応永30年(1423)に都濃郡富田保四熊生原(現在の周南市庄原)の浄土寺に寄進されたものであることがわかる。途中現在地に移された経緯については明らかでない。浄土寺及び願主の善祐についても未詳である。
 (鼓面径 18.7センチメートル  厚さ6.0センチメートル 青銅製)

紙本墨書大般若波羅蜜多経及び櫃箱 (大般若波羅蜜多経500帖・櫃箱5合)

市指定有形文化財(典籍)

指定年月日

平成10年5月28日

場所

光市光井九丁目18番2号(光市文化センター保管)

中身の文字が見えるように開いてある大般若波羅蜜多経と櫃箱と内箱の写真

 大般若波羅蜜多経(大般若経)は唐の玄蔵訳で600帖(巻)からなる。紀元1世紀頃から成立していた般若波羅蜜の義を説く諸経典を集成したものといわれる。この経本は古来大般若経転読会に用いるため、多くの社寺で書写され、防長においても南北朝から室町時代ごろにかけて特に流行した。
 光井の八海観音堂に伝わる大般若経は完全本が444帖、不完全本56帖で、ちょうど100帖を欠失している。経は折り本仕立てで、桧材の櫃箱(ひつばこ)に納められている。櫃箱は5合(箱)あり、上部に蓋、両側面に脚が1本ずつついている。櫃箱の中には2列5段、計10個の内箱が納められ、内箱1個には経本10帖が納入されている。
 この大般若経は複数の人が書写した書継経であり、近世以降の木版刷経以前のものである。最初(初百内)と最後(六百内) の櫃箱内底に「文亀元年辛酉五月吉日願主恵胤」とあり、また経本奥書に「周防国光井保東方妙見宮御経也」(第550帖末)とあることから、この大般若経は室町時代後期の文亀元年(1501)に恵胤が光井保東方の妙見宮に寄進奉納したものと考えられる。妙見宮に寄進された経が観音堂に移された経緯については、依拠すべき史料がないため不明であるが、観音堂に残る木板銘によると弘化4年(1847)に地元観音経会諸衆による転読会が観音堂で開かれていることから、江戸時代には移されていたものと考えられる。

料紙一枚
  • 縦  24.8センチメートル
  • 横  53.0センチメートル
1帖(巻)
  • 縦  24.8センチメートル
  • 横  10.2センチメートル
  • 厚さ 0.8センチメートル
櫃箱(蓋・脚付)
  • 高さ 35.6センチメートル
  • 横  49.5センチメートル
  • 奥行 30.9センチメートル
  • 板厚 1.2センチメートル
  • 高さ 6.9センチメートル
  • 横  51.8センチメートル
  • 奥行 33.3センチメートル
内箱
  • 高さ 6.6センチメートル
  • 横  27.5センチメートル
  • 奥行 23.1センチメートル
  • 板厚 1.0センチメートル

新屋河内賀茂神社頭番文書(1通)

市指定有形文化財(古文書)

指定年月日

平成12年10月27日

場所

光市浅江荒神

淡褐色の紙2枚にわたる新屋河内賀茂神社頭番文書の写真

 文書は、縦32.5センチメートル、横150センチメートルの淡褐色の楮紙(こうぞし)に記されている。「新屋河内」にあった賀茂神社の祭礼を実施するにあたっての頭番割や費用の負担について記したものである。延徳2年(1490年)に書かれたもので、23年間の記録がされている。

 現在は、「新屋河内」という地名は残っていないため、場所の特定は困難であるが、江戸時代に編纂された「防長風土注進案」 (天保13年・1842)に浅江村の「佐内」「駒ヶ原」「西河内」の3集落はかつて「新地河内」という村だったとの記述があり、他の状況から同一の地名と考えられる。浅江村と三井村との境界あたりで、当神社の氏子圏を御領(新屋河内)と浅江領に二分し、それぞれから費用を負担して運営していたことがわかる。
 また、この賀茂神社は、当初浅江瀬戸風浦に祀ってあったが、その後新屋河内に移り、更に江戸時代に浅江宮崎 (現浅江神社の所在地)に遷座し、明治4年に同所に存した山王八幡と合併し浅江神社となった。
 この文書は、「新屋河内賀茂神社」の存在及び「新屋河内」という地名の存在を証明すると同時に、当時の村落の宮座 (祭礼などを行う組織)の運営を知る上にも極めて貴重なもので、光地方の中世史にかかわる史料として歴史的価値の高い文書である。

冠天満宮棟札(6枚)

市指定有形文化財(歴史資料)

指定年月日

昭和62年4月16日

場所

光市光井九丁目18番2号(光市文化センター保管)

それぞれ文字が書かれている6枚の棟札の写真

 冠天満宮は菅原道真が筑紫大宰府に下向の途中、波風を避け船を戸仲浦にとどめたことに由来する。したがって、伝承通りに解すれば、創建は平安時代ということになるが、神社にある棟札は室町時代の天文18年(1549)銘が最古で、これに次ぐ貞享2年(1685)、元禄11年(1698)、享保14年(1729)、寛延2年(1749)、文政9年(1826)銘の計6枚の棟札が市指定となっている。
 天文18年銘の棟札には、「承平五年卯月廿三日午刻次造営/光井先祖代々上葺棟札在之」と前書きした後に、光井兵庫助兼種や内藤興盛などの名前を記している。また、棟札の裏面には「光井代々先祖事/本名字安富/宝治元下向(後略)」と、光井氏の出自について記すなど、光地方の中世史を知らせる貴重な史料である。

天文18年銘棟札
  • 長さ 116.0センチメートル
  • 幅  11.0センチメートル
  • 厚さ 1.5センチメートル
  • 杉板製

宗通寺の石風呂(1基)

市指定有形民俗文化財

指定年月日

昭和59年12月7日

場所

光市大字塩田2893番1

石を積み上げて作られた石風呂と石灯籠の写真

 この石風呂は、宗通寺の跡と思われる地にある小さな庵の境内にある。宗通寺は、『防長風土注進案』によると、かつては真言宗で、塩田村の疫神社(須賀社)の社坊として、文化3年(1806)に再建したとあるが、この他は明らかではない。
 石風呂は、石室の中で柴を燃やして石を焼き熱気浴を行うものである。この石室の構造は、石を積み上げた上に粘土を塗りこめ、内部の土間にも石を敷き、たたきになっている。
 入浴方法は、松葉を石室内で燃やして石を焼き、残り火を出して海草を敷き、その上に濡れむしろを置き、わらごもなどをかぶって、6、7人で一緒に入り熱気浴をして疲れを癒していたという。
  (高さ2.6メートル、奥行き4.2メートル、入口の高さ85センチメートル、間口74センチメートル)

早長八幡宮祭礼の山車と踊山(山車10輌・踊山1輌)

市指定有形民俗文化財

指定年月日

昭和56年12月21日

場所

光市室積三丁目4番1号(光市室積山車保存会)

祭りで山車を引っ張って歩いている法被姿の男性の写真

 早長八幡宮は文安元年(1444)に室積浦の氏神として豊前国宇佐八幡宮を勧請したことに始まる。当初は普賢寺前の宮ノ崎に祀ったが、江戸時代になって現在地に社殿を建立し遷座した。
毎年10月第2日曜、秋の例祭に合わせて山車の曳き回しが行われる。山車は台若 ・鳥居・石燈籠・狛狗・随神山・御鏡山・曳船の7種類計10輌、それに踊山が続く。
 江戸時代の寛文年間(1661~72)に台若・御鏡山・曳船の3輌が造られた。神船を模って造られ、車輌の形態を整えたものである。元禄年間(1688~1703)に鳥居・石燈籠・狛狗・随神山が造り足された。享保18年(1733)に室積浦で大火があり、このとき山車も焼失したが、宝暦7年(1757)復造して今日に至っている。特に宝暦年間(1751~63)、宮ノ脇に萩藩が撫育局や御蔵会所を設けた時期には隆盛であった。踊山は文化年間(1804~17)に造られた。台上を舞台として民俗芸能が奉納されるため、踊山と称される。

山車をひく写真

 例祭は現在でも9人の頭屋(九頭)によって執行される。山車は各所有自治会で組み立て、午後2時半頃山車の曳き立てを始める。先頭の台若と最後尾の踊山には山宰領が乗り込み、木遣り唄と共に、山宰領の振る御幣に合わせて曳き廻しされる。お旅所では神社の形態に山車を並べ、神官による祭神の儀式が行われる。
 神社の形態を整えた山車を曳くのは全国的に見ても特異である。祭礼には決まって「おとも船」が供奉するが、これは宇佐本宮還御の古式ゆかしい風習を現代に伝えるものとして注目される。

周防猿まわし

市指定無形民俗文化財

指定年月日

平成16年9月3日

場所

光市浅江七丁目18番25号(周防猿まわしの会)

芸を披露する猿とねじり鉢巻きに法被姿の猿まわしの男性の写真

 猿まわしは、すでに鎌倉時代に記録され、江戸時代には多くの猿まわしの集団があり、長州藩では門開きといったが、一般的には門付けとして正月の年中行事の一つであった。
 長州藩では猿まわしのことを猿引と呼び、その多くの集団は周防国の熊毛郡・都濃郡に集中し、当地方では猿舞師といったが、全国的に猿回しの名称が一般化された。
 明治、大正、昭和初期と国内の津々浦々にある広場の辻芸を「バタ打ち」、「門付け」の一軒一軒廻りを「ドカ打ち」、小集団で全国を廻ることを「上下ゆき」といった。目的地で二・三人が一組となり「ヒコやり」と称する猿まわしをし、同行の妻子は整髪料の鬢(びん)付け油として椿油を売り、多くの人々を楽しませてきたが、車社会の出現等によって次第に衰退し、昭和38年(1963)に消滅した。その後、個人で昔の猿まわしの芸を思い出し、近代猿まわしの仕込み(調教)の技を伝え、現代の猿まわしはその教えを忠実に実践し、昭和52年(1977)12月「周防猿まわしの会」の結成により復活されたもので、伝統芸能、民俗芸能である「猿まわし」の技と芸が保持・継承されている。
 「周防猿まわしの会」は、光市を拠点に熊本県阿蘇と山梨県河口湖に劇場を開設し、多くの芸人と芸猿が伝統芸能を後世に残そうと活動を展開している。

室積台場(2基)

市指定史跡

指定年月日

昭和51年7月14日

場所

光市大字室積村字普賢山2601番1

大きな石を四角い形に積んで作られた室積台場の写真

 幕末における対外情勢の緊迫に際し、長州藩は北浦地方に続いて瀬戸内の海岸の防備を急務として、室積・上関・室津などの要衝地には大砲を備え、時々発砲演習を実施するように命じた。
 台場は外敵の侵入に備えて大砲を備え付けるための施設で、萩市の菊ヶ浜土塁が女(おなご)台場として広く知られているが、これよりも早く長州藩では、弘化4年(1847)5月幕府から大砲設置の許可を得て、室積の象鼻ケ岬に台場を築造している。

室積台場の写真

  弘化5年(1848)佐藤作左衛門『書礼控』(山口県文書館所蔵)の御手洗湾絵図には、室積の台場3台が見える。
 台場の規模は安政年間(1854~59)の『郡中大略』(山口県文書館所蔵)によると、「大砲台輪一ケ所但三台、高一間七尺五寸、上り一間、土台二間宛之事」とあり、今日のメートル法でいうと、高さ4.07メートル、上部1.80メートル、土台3.60メートルの四角錐台形石塁である。『大砲台場垜石垣図』(山口県文書館所蔵)があり、垜は四角錐台形石塁のことで、敵からの防御の玉避けのものとされている。ここに現存する台場は、台風による大波にさらわれ数度崩壊したが、周辺に散乱した土石を集め2台を復元したものである。

向山文庫(23.19平方メートル)

市指定史跡

指定年月日

昭和51年7月14日

場所

光市大字立野1011番地

生い茂る木々の間に建つ向山文庫の建物の写真

 立野の島田川支流、束荷川沿いに旧難波家があり、その邸内に「向山文庫」の額がかかった土蔵がある。近くには創設者の難波覃庵(たんあん)翁(1811~88)の顕彰碑が建てられている。
 江戸時代この立野村は、長州藩寄組清水家代々の一郷一村知行地で、その次席家老職にあった難波周政(かねまさ)(覃庵)は領地内に私塾養義場や慕義会などを設立し、郷土子弟の教育に努めた。
 元治元年(1864)禁門の変の責任で、藩は俗論派政府の主張で福原・国司・益田の三家老に切腹を命じた。また、この事件に関与したとみなされ、立野村で蟄居していた家老の清水親知も萩表に呼び出され、切腹させられた。
 その後、難波周政(覃庵)は清水家に伝わる書物に自家所蔵の書籍を加え閲覧公開をするため、明治16年(1883)には新たに 2階の建物を建て、清水親知の法名「仁沢院殿向山義雄」に因んで『向山文庫』と名付けた。文庫の文字は三条実美の書で、下方の「仰高」の額は 長州藩主毛利元徳の筆である。
 広さは2間×3.5間(23.19平方メートル)あり、文庫内の中央正面には祭壇を設け、孔子と親知の木像を安置した。同41年(1908)には一般への開放と同時に、県立図書館の巡回文庫を借り受け、利用に供するなど積極的な動きも見られたが、年々活動が停滞し荒廃がひどく文庫を閉じた。
 閉鎖後は書籍の一部を県立図書館へ依託したが、山口県文書館が設立されたため、その書籍は文書館に移動し、さらに昭和 55年に光市文化センターに寄託された。

岩屋古墳(1基)

市指定史跡

指定年月日

昭和62年4月16日

場所

光市大字室積村1013番1

木々が生い茂る急崖上に作られた岩屋古墳の写真
石を積んで作った壁のある横穴式石室内部の写真

 古墳は標高約50メートルの御手洗湾を望む急崖上にあり、墳丘は直径約12メートル、高さ約3メートルの円墳である。南東に開口する横穴式石室は西片袖型で、全長7.90メートル、玄室長さ6.06メートル、奥壁幅2.35メートル、奥壁高2.40メートルを測る。
 石材は花崗岩を主としており、下段の石は比較的大きく、形も整っているが、他は不揃いである。早くから開口していたものらしく、副葬品は須恵器片が若干現存するのみで、詳細は不明である。石室の構造から6世紀後半~7世紀初頭の築造と考えられる。
 岩屋古墳は立地条件からみて、海を生活基盤とする集落の族長家族の奥津城であろうが、集落関係をいうならば、岩屋集落の歴史は少なくとも6世紀後半代まではさかのぼれることになる。
 石室崩落の防止策を講じているが、現在市内で確認されている古墳の中で、原型を保っているものは他になく、貴重である。

阿曽沼氏墓所(21.224平方メートル)

市指定史跡

指定年月日

平成18年1月25日

場所

光市大字塩田255番地(佐田八幡宮)

玄鳳塔の写真
妙春塔の写真

 この墓所は佐田八幡宮境内に隣接する同社裏山の中腹にある。
 阿曽沼氏は安芸国(広島県)南岸地方の小国主だったが、毛利氏に従って関ヶ原の戦に出兵した。その後、阿曽沼元郷は毛利氏とともに周防国入りし、熊毛郡塩田村佐田、生野などに計1400石を宛がわれた。うち佐田が314石と最も多く、本拠を構えたと考えられる。
 領内に鳳庵寺を創建して菩提寺としたが、鳳庵寺は寛文9年(1669)に正心寺(平生町大野)と合併して常春寺と称し、新たに阿曽沼氏の香花所となった。そのために旧鳳庵寺は荒廃し、からくも宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基などが残っている。
 宝篋印塔は玄鳳塔と妙春塔で、玄鳳塔は慶長6年(1601)に急死した阿曽沼元郷の墓塔と推定され、妙春塔は慶長16年(1613)に亡くなった元郷の二女と推定される。
 両塔とも基壇上に基礎、塔身、伏鉢、請花、相輪の順に各部を重ねているが、笠石部分を欠いているため、宝篋印塔独自の優美さは見られない。笠石を欠いた高さは玄鳳塔が117センチメートル、妙春塔は115センチメートルで、両塔は287センチメートルの距離を置いて建っている。石質はともに安山岩である。
 毛利氏の上級家臣、阿曽沼氏の関連史料として、また、大和地域の近世初期の給領主の痕跡として歴史的にも貴重であり、史料的価値を有している。(左・玄鳳塔 右・妙春塔)

森様社叢

市指定天然記念物

指定年月日

昭和58年7月26日

場所

光市大字室積村1483番

大きな枝が空高く伸びている木々の写真

 室積の中心街から大峰峠へ出る坂道沿いに、森様と称する高い木の茂った一角がある。以前はこの森に古い社があり、村人は五穀豊穣と家内安全を祈願したといわれている。
 716平方メートルの旧境内には、ムクノキとクスノキの大木が各3本と、ソメイヨシノ・ヤブツバキ・イヌガヤ・シュロなどと共に、暖地性の羊歯植物ホソバカナワラビも生えている。ムクノキは最も大きいもので、根回り7.12メートル、目通り幹囲 3.95メートル、高さ約23.0メートルと巨木で、樹勢もきわめて旺盛である。ムクノキはニレ科の落葉喬木(きょうぼく)で、関東以西では各所に見られるが、森様のものは、光市内でも稀に見る大木である。他の小中の樹木と同様に社叢(しゃそう)内の乾燥や直射日光を防いでいることから、これらの樹木を一緒に保存することは、社叢全体の植物のために重要である。

牛島のタブノキ

市指定天然記念物

指定年月日

平成21年2月17日

場所

光市大字牛島字東70番1

森のように緑色の葉が生い茂っているタブノキの写真
タブノキの幹と傍に建っている小屋の写真

 一見して森のようにも見えるが、これは一本のタブノキである。現在は光市の所有であるが、かつては牛島の所有であり、島民のこの木に対する信仰心は厚く、いつでも注連縄が巻いてある。
 根元に荒神様が祀ってあり、常に新しい花が活けてある。タブノキは荒神様と一体となって信仰を集めている。
 枝張りは東約7.0メートル、西約6.5メートル、南約6.7メートル、北約9.6メートルを測る。平均約7.5メートル。北側の枝がやや長いがほぼ均等である。平均枝張の樹高比は7.5÷10.2=0.74で、安定している。更に各枝張りの先端枝は東・西・南枝では地面に0.3メートル~1.0メートルにまで迫る。
 古木であることから、以前に雷や台風などに何回か襲われ、損傷を受けたと言われているがよく回復している。西側の枯幹にハゼノキの種子が落着し、それが大きく成長している。
 古くから島民に愛され、その大きさから島外の多くの人にも知られていた。牛島のタブノキは目通りが3幹になっていて、単幹のものと直接比較はできないが、県下の他の大木と比較すると、著しく大きいことが分かる。また、樹形なども極めて良く、樹勢も良い。
タブノキ - クスノキ科

牛島のヒトツバハギ群生地

市指定天然記念物

指定年月日

平成24年2月15日

場所

光市大字牛島

ヒトツバハギの葉の写真
ヒトツバハギの枝に黒い実がついている写真

 牛島港から東に歩くと、旧牛島小・中学校から旧火葬場にかけて、ヒトツバハギの群生がある。
ヒトツバハギは和名で「一葉萩」と書く。全体がハギに似ているが、ハギのように1枚の葉が3枚の小さい葉に分かれるのではなく、1枚の葉のままであるからである。ハギの木とは関係のない植物であり、トウダイグサ科に属する落葉低木で、雌雄で株が異なり、6月頃から開花する。雄花は淡緑色で密生するが、雌花はやや少ない。めしべは後に実になって12月頃まで残る。
 ヒトツバハギは西日本に稀に分布するが、県内では牛島のみに自生し、平成14年に県が刊行した「レッドデータブックやまぐち」では絶滅危惧IB類に登録されている。

旧礒乃屋 (主屋1棟・離れ座敷(茶室)1棟・釜屋1棟)

国登録有形文化財(建造物)

指定年月日

平成11年10月14日

場所

光市室積五丁目3番20号

二階建ての古い日本家屋風の旧礒乃屋の写真
主屋

 登録基準 再現することが容易でないもの
 室積湾を背にし、表通りに西面して建つ。木造2階建、本瓦葺寄棟屋根の妻入で、軒裏と外壁を白漆喰で塗込め、正面と側面に下屋を付け、2階中央と玄関両側の格子窓により端正な表構えを造る。材木問屋を営んだ旧家で、内部の骨太い梁組や造作などは、庭園ともに上質で明治期の町家として重要である。建築時期明治前期、建築面積185平方メートル。

離れ座敷(茶屋)

 登録基準 造形の規範となっているもの
 明治後期に主屋北側に増築された角座敷から浜側に伸びた渡り廊下で繋がれる。木造平屋建で、瓦葺入母屋屋根の三方に庇を回した構成をとり、4畳半の茶室を中心に、北側に3畳間と便所を設ける。上質で端正な造りの離れ座敷で、主屋との間に程よい中庭的空間を作り出している。建築時期明治後期、建築面積44平方メートル。

釜屋

 登録基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの
 主屋下屋の南東端から南側小路に沿って浜側に伸びる木造平屋建、瓦葺切妻屋根の便益棟部分で、主屋下屋よりさらに棟を落とす。井戸上屋を兼ねた棟で、井戸の脇に煉瓦造の流し場と竃を設けている。建築時期明治後期、建築面積32平方メートル。

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会 文化・社会教育課 文化振興係
住所:〒743-0011 光市光井九丁目18番3号
電話番号:0833-74-3607

メールアドレス:bunsya@edu.city.hikari.lg.jp

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