| ■島田三尊種子板碑(1基) |
市指定有形文化財(建造物) |
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●指定年月日 昭和51年7月14日
●場所 光市中島田二丁目1902番
花崗岩の自然石を粗く削り、これに梵字種子(しゅじ)と紀年銘を刻した自然石碑である。島田林集落の三尊種子板碑は地上高 206cm、塔身は下方で横幅60cm前後の三角錐状をなし、上方にいくにしたがって標識のある正面のみ広さを保ち、他の2面は幅が狭くなっている。ただし頭部は圭角をなさず、横2条の切れ込みもない。
主尊は地蔵種子を中心に、右下に薬師如来、左下に観音菩薩の種子を各月輪内に刻している。紀年銘は主尊の下方に「明徳二年辛未六月 日」とある。明徳2年は北朝の年号で西暦1391年、また、その記載形式からして南北朝期の造立とみて間違いない。板碑は県内で50数基発見されているが、光市内では唯一の遺品である。
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| ■清水宗治主従の供養塔(宝篋印塔 4基・石殿 3基・基壇 1基) |
市指定有形文化財(建造物) |

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●指定年月日 昭和58年7月26日
●場所 光市浅江二丁目1番14号(清鏡寺)
清鏡寺本堂裏手の西側に玉垣を造り、その正面奥に宝篋印塔(ほうきょういんとう)1基と石殿3基、左側に小宝篋印塔3基、右側手前に宝篋印塔の基壇1基を安置している。正面奥の宝篋印塔は中形の完存品であるが、左側の3基はいずれも小形の遺品であり、石殿も軸部が破損している。
宝篋印塔・石殿とも無銘であるが、室町時代末期から江戸時代初期ごろのもので、『防長風土注進案』に「高松において殉死之御方孰も御廟之傍に石塔御座候」とあることと符合する。つまり、これらの石塔は、天正10年(1582)6月に羽柴秀吉の水攻めにあって備中高松城に没した清水宗治とその家臣の供養塔である。 宗治の嗣子景治は毛利氏に属して、光市内の野原や立野を領し、吉祥寺を清鏡寺と改め自家の香花所とした。清鏡寺には宗治が使用した陣鐘や鐙も保存されている。
宝篋印塔(正面奥のもの)
総高 144cm
安山岩製 |
石殿(正面奥の3基)
右側 高さ 70.5cm
中央 高さ 79.5cm
左側 高さ 108.0cm
安山岩製 |
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| ■木造十一面観世音菩薩立像(1躯) |
市指定有形文化財(彫刻) |
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●指定年月日 昭和59年12月7日
●場所 光市大字束荷1622番地(慶宝寺)
髻頂(けいちょう)に仏面をいただき、頭上面十面(五面欠落)を天冠台上の地髪に二段に配し、右手は体にそって下げ、左手は前方に上げ、宝びんを執り、条帛(じょうはく)、天衣(てんね)、裳(も)をつけ蓮台上に立っている。
像高68cm。桧材の一本造り。彫眼、頭、体の主幹部を右腕及び左腕の上はく部を含めて、堅一材から彫り出し、内刳りはしていない。部分的に修理が加えられている。制作年代は明らかではないが、低い宝髻(ほうけい)、豊満な円相、肉づきのよいがっしりした体躯、比較的彫りの深い衣文などから、その制作は藤原時代(平安時代後期)中頃にさかのぼるものと推定される。
由来・沿革として、『防長寺社由来』の慶宝寺の条に「一 寺内観音堂有之、十一面観音、運慶の作と申伝候事」とあるのがこれにあたる。
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| ■木造薬師如来坐像(1躯) |
市指定有形文化財(彫刻) |
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●指定年月日 平成4年2月26日
●場所 光市大字三輪8番地の1(称名院)
称名院は、元は浄土宗の寺であったが今は無住で、市町内会により管理されている。本尊仏は阿弥陀如来(別掲の市指定文化財「木造阿弥陀如来坐像」)であるが、この地方一帯は、往古より石城山神護寺を中心に薬師信仰が盛んで、この称名院の薬師如来もそのうちの一つで、霊験あらたかとして信仰を集めてきた。
如来は、衲衣(のうえ)を偏袒右肩(へんたんうけん)につけ、右手は前方に立て施無畏印(せむいいん)を結び、左手は膝上で薬壷を執り、蓮台上に結跏趺坐(けっかふざ)している。桧材の寄木造り。
高い肉(にっ)髻(けい)、直線の髪際線、下ぶくれの円相、盛り上る三道、がっしりとした肩、張りのある豊かな体躯、流麗な衣文線、内刳りに見られる太くて粗いノミ跡など、藤原時代(平安時代後期)末期の特色が見られるが、膝厚は比較的薄く、特に形式化の著しい膝前の衣文のたたみ方などから、その制作は藤原末期(平安末期)から鎌倉初期ごろと思われる。
保存状態は必ずしも良好とはいえないが、制作の時代が古く、この地方の古代の信仰を知る好古の資料として重要である。
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| ■木造阿弥陀如来坐像(1躯) |
市指定有形文化財(彫刻) |
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●指定年月日 平成4年2月26日
●場所 光市大字三輪8番地の1(称名院)
称名院の本尊仏で、『防長寺社由来』に「一 本尊阿弥陀仏、但座像御長弐尺壱寸、尤古仏と申伝候、脇立観音勢至、但新仏立像御長壱尺五寸」とあるのがこれにあたる。
衲衣を偏袒右肩(へんたんうけん)につけ、両手を胸前にあげ、中品中生の印を結び、蓮台上に結跏趺坐(けっかふざ) している。桧材の寄木造り。
肉(にっ)髻(けい)の盛り上りは低く、髪際はわずかにカーブする。切長の眼、小鼻の張った筋の通った鼻、口元をひきしめた整った面相である。胸も豊かでたっぷりとした体躯である。衣文線は写実的でおおらかであるが、形式化が目立つ。内刳りに見られる小丸刀の整然とした削り跡などからその制作は鎌倉時代後期ごろと見られる。
まとまりのよい整った都ぶりの像で、中品中生印を結ぶ阿弥陀如来像は県下では珍しい。
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| ■銅造虚空蔵菩薩立像(1躯)・銅造厨子(1基) |
市指定有形文化財(彫刻) |
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●指定年月日 平成10年7月9日
●場所 光市大字束荷2250番地の1(伊藤公資料館)
虚空蔵菩薩立像は、高さ8.3cmの銅製で、南北朝時代に藤原藤房が、楠正成・正行父子の死を弔うために鋳造したといわれ、台座の背面に「侃山拝」の陰刻のある念持仏である。藤房は、本像を銅製の厨子(高さ11.0cm)に納め、首にかけて全国を行脚してまわったという。
初代総理大臣の伊藤博文は、この念持仏を鎌倉八幡宮の宮司である箱崎氏から手に入れ、守り本尊として肌身離さず携帯していた。博文が明治42年(1909)中国東北地区のハルビン駅で暗殺された後、念持仏も日本に持ち帰られた。その後、ソウル市の博文寺に安置されたが、終戦時に再び日本に運ばれ、平成4年(1992)大和町に寄贈された。
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| ■八海観音堂の鰐口(1口) |
市指定有形文化財(工芸品) |
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●指定年月日 昭和51年7月14日
●場所 光市大字光井818番地
青銅製の中型鰐口で、肩の左右に突き出た耳に鉄の輪を通して釣りさげる。釣環の下方の目は、胴の付け根から水平に突き出て、直径4.3cmの円筒形をなし、開口部は2.0cmと狭く、その縁の唇は平板である。
鼓面は、2、3重の圏線によって撞座区(つきざく)・中区・銘帯の3区に分かれ、撞座区と中区は無文であるが、外側の銘帯には表裏とも刻銘がある。表面上部に阿弥陀三尊種子を刻し、「奉懸潮音寺御宝前鰐口之事」(左側)「右祈念者大檀那各人現世安穏後生善處者也」(右側)とあり、裏面には「具一切功徳慈眼視衆生福聚海無量是故應頂礼」(左側)、「干時永正十七庚辰卯月吉日 願主沙門 敬白」(右側)とある。永正17年(1520)、潮音寺に寄進された鰐口がどのような事情で八海観音堂に移されたかは定かでない。
(鼓面径 33.5cm 厚さ 10.8cm)
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| ■銅造梵鐘(1口) |
市指定有形文化財(工芸品) |
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●指定年月日 昭和57年4月22日
●場所 光市大字塩田796番地(正讃寺)
この梵鐘は、初め石城神社の社坊であった神護寺に懸吊されていたが、明治維新の神仏分離により神護寺が廃寺となり、明治12年(1879)、地元の正讃寺に買い取られ現在に至っている。
享保20年(1735)5月9日に神護寺の惣氏子中が施主となって同寺に奉納したもので、冶工は三田尻(防府市)の鋳物師、郡司貞右衛門尉藤原信勝である。
この梵鐘の特徴は、竜頭(りゅうず)が単頭で旗挿を持ち、鐘身部に袈裟襷を施さない完全な朝鮮鐘の形式である。
和鐘に朝鮮鐘の特色を加味した、いわゆる和韓折衷式の梵鐘は幾例かが知られているが、この鐘のようにほとんど完全に朝鮮鐘を模倣した梵鐘は県下では他に類例がない。防長鋳金史上注目すべき資料である。法量は総高122.7cm。
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| ■金銅十一面観世音菩薩坐像懸仏(2面) |
市指定有形文化財(工芸品) |
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●指定年月日 昭和58年7月26日
●場所 光市光井九丁目18番2号(光市文化センター保管)
懸仏はインドの仏が姿を変えて日本の神々に生まれ変わったという本地垂迹説に基づいて作られたものである。
冠天満宮には懸仏が2面伝わっているが、ともに銘はない。写真に向かって右側は、薄い銅製円板に覆輪(ふくりん)をつけ、裏には桧の木板、左右の肩に釣環を設けている。鏡面は中央上部に天蓋を打ちつけ、その下に天神の御正体である十一面観世音菩薩の坐像を安置している。仏像は鋳上がりもよく、頭部を丸彫りとする立体的手法や花瓶(けびょう)を取り付けただけの装飾性の少ない鏡面、がっしりとした釣環を持つ鐶座様式などから、鎌倉時代の製作と考えられている。
(鏡板直径31.4cm、仏像総高19.2cm)
写真向かって左側は、薄い銅の円板を木板にはり、覆輪をめぐらしている。中心の仏像は頂上に仏面、天冠台上に10面の菩薩面を一列に配置する。ただし、仏像の鋳成は薄手で、一列に並ぶ頭上面の表現も形式的であり、右側の遺品よりは製作年代が下って南北朝期から室町初期ごろと推定される。
(鏡板直径34.6cm、仏像総高14.0cm)
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| ■光井八海の鰐口(1口) |
市指定有形文化財(工芸品) |
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●指定年月日 平成3年3月20日
●場所 光市光井八海
鼓面ふくらみが少ない小型の鰐口で、肩、胴の中央線に表裏の鋳型を合わせた跡が突起となって残っている。肩の左右に比較的大きな耳が突出し、鉄製の吊環を付帯している。また、耳の下には筒状の目が突き出て、目から下方は口の部分となっている。
撞座区(つきざく)・中区・銘帯に細い隆起圏線をめぐらして3区に分かち、撞座区・中区とも無文である。銘帯には表面に「敬白奉鋳鰐口一口冨田保/四熊生原浄土寺」、裏面に「應永三十年癸卯六月一日/願主善祐敬白」と陰刻している。この銘文から、鰐口は室町時代中期の応永30年(1423)に都濃郡富田保四熊生原(現在の周南市庄原)の浄土寺に寄進されたものであることがわかる。途中現在地に移された経緯については明らかでない。浄土寺及び願主の善祐についても未詳である。
(鼓面径 18.7cm 厚さ6.0cm 青銅製)
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| ■紙本墨書大般若波羅蜜多経及び櫃箱 (大般若波羅蜜多経500帖・櫃箱5合) |
市指定有形文化財(典籍) |
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●指定年月日 平成10年5月28日
●場所 光市光井九丁目18番2号(光市文化センター保管)
大般若波羅蜜多経(大般若経)は唐の玄蔵訳で600帖(巻)からなる。紀元1世紀頃から成立していた般若波羅蜜の義を説く諸経典を集成したものといわれる。この経本は古来大般若経転読会に用いるため、多くの社寺で書写され、防長においても南北朝から室町時代ごろにかけて特に流行した。
光井の八海観音堂に伝わる大般若経は完全本が444帖、不完全本56帖で、ちょうど100帖を欠失している。経は折り本仕立てで、桧材の櫃箱(ひつばこ)に納められている。櫃箱は5合(箱)あり、上部に蓋、両側面に脚が1本ずつついている。櫃箱の中には2列5段、計10個の内箱が納められ、内箱1個には経本10帖が納入されている。
この大般若経は複数の人が書写した書継経であり、近世以降の木版刷経以前のものである。最初(初百内)と最後(六百内) の櫃箱内底に「文亀元年辛酉五月吉日願主恵胤」とあり、また経本奥書に「周防国光井保東方妙見宮御経也」(第550帖末)とあることから、この大般若経は室町時代後期の文亀元年(1501)に恵胤が光井保東方の妙見宮に寄進奉納したものと考えられる。妙見宮に寄進された経が観音堂に移された経緯については、依拠すべき史料がないため不明であるが、観音堂に残る木板銘によると弘化4年(1847)に地元観音経会諸衆による転読会が観音堂で開かれていることから、江戸時代には移されていたものと考えられる。
料紙一枚
縦 24.8cm
横 53.0cm |
1帖(巻)
縦 24.8cm
横 10.2cm
厚さ 0.8cm |
櫃箱(蓋・脚付)
高さ 35.6cm
横 49.5cm
奥行 30.9cm
板厚 1.2cm |
蓋
高さ 6.9cm
横 51.8cm
奥行 33.3cm |
内箱
高さ 6.6cm
横 27.5cm
奥行 23.1cm
板厚 1.0cm |
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| ■新屋河内賀茂神社頭番文書(1通) |
市指定有形文化財(古文書) |
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●指定年月日 平成12年10月27日
●場所 光市浅江荒神
文書は、縦32.5cm、横150cmの淡褐色の楮紙(こうぞし)に記されている。「新屋河内」にあった賀茂神社の祭礼を実施するにあたっての頭番割や費用の負担について記したものである。延徳2年(1490年)に書かれたもので、23年間の記録がされている。
現在は、「新屋河内」という地名は残っていないため、場所の特定は困難であるが、江戸時代に編纂された「防長風土注進案」 (天保13年・1842)に浅江村の「佐内」「駒ヶ原」「西河内」の3集落はかつて「新地河内」という村だったとの記述があり、他の状況から同一の地名と考えられる。浅江村と三井村との境界あたりで、当神社の氏子圏を御領(新屋河内)と浅江領に二分し、それぞれから費用を負担して運営していたことがわかる。
また、この賀茂神社は、当初浅江瀬戸風浦に祀ってあったが、その後新屋河内に移り、更に江戸時代に浅江宮崎 (現浅江神社の所在地)に遷座し、明治4年に同所に存した山王八幡と合併し浅江神社となった。
この文書は、「新屋河内賀茂神社」の存在及び「新屋河内」という地名の存在を証明すると同時に、当時の村落の宮座 (祭礼などを行う組織)の運営を知る上にも極めて貴重なもので、光地方の中世史にかかわる史料として歴史的価値の高い文書である。
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| ■冠天満宮棟札(6枚) |
市指定有形文化財(歴史資料) |
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●指定年月日 昭和62年4月16日
●場所 光市光井九丁目18番2号(光市文化センター保管)
冠天満宮は菅原道真が筑紫大宰府に下向の途中、波風を避け船を戸仲浦にとどめたことに由来する。したがって、伝承通りに解すれば、創建は平安時代ということになるが、神社にある棟札は室町時代の天文18年(1549)銘が最古で、これに次ぐ貞享2年(1685)、元禄11年(1698)、享保14年(1729)、寛延2年(1749)、文政9年(1826)銘の計6枚の棟札が市指定となっている。
天文18年銘の棟札には、「承平五年卯月廿三日午刻次造営/光井先祖代々上葺棟札在之」と前書きした後に、光井兵庫助兼種や内藤興盛などの名前を記している。また、棟札の裏面には「光井代々先祖事/本名字安富/宝治元下向(後略)」と、光井氏の出自について記すなど、光地方の中世史を知らせる貴重な史料である。
天文18年銘棟札
長さ 116.0cm 幅 11.0cm 厚さ 1.5cm 杉板製
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| ■宗通寺の石風呂(1基) |
市指定有形民俗文化財 |
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●指定年月日 昭和59年12月7日
●場所 光市大字塩田2893番1
この石風呂は、宗通寺の跡と思われる地にある小さな庵の境内にある。宗通寺は、『防長風土注進案』によると、かつては真言宗で、塩田村の疫神社(須賀社)の社坊として、文化3年(1806)に再建したとあるが、この他は明らかではない。
石風呂は、石室の中で柴を燃やして石を焼き熱気浴を行うものである。この石室の構造は、石を積み上げた上に粘土を塗りこめ、内部の土間にも石を敷き、たたきになっている。
入浴方法は、松葉を石室内で燃やして石を焼き、残り火を出して海草を敷き、その上に濡れむしろを置き、わらごもなどをかぶって、6、7人で一緒に入り熱気浴をして疲れを癒していたという。
(高さ2.6m、奥行き4.2m、入口の高さ85cm、間口74cm)
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■早長八幡宮祭礼の山車と踊山(山車10輌・踊山1輌)
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市指定有形民俗文化財 |
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●指定年月日 昭和56年12月21日
●場所 光市室積三丁目4番1号(光市室積山車保存会)
早長八幡宮は文安元年(1444)に室積浦の氏神として豊前国宇佐八幡宮を勧請したことに始まる。当初は普賢寺前の宮ノ崎に祀ったったが、江戸時代になって現在地に社殿を建立し遷座した。
毎年10月第2日曜、秋の例祭に合わせて山車の曳き回しが行われる。山車は台だい 若は ・鳥居・石燈籠・狛狗・随神山・御鏡山・曳船の7種類計10輌、それに踊山が続く。
江戸時代の寛文年間(1661~72)に台若・御鏡山・曳船の3輌が造られた。神船を模って造られ、車輌の形態を整えたものである。元禄年間(1688~1703)に鳥居・石燈籠・狛狗・随神山が造り足された。享保18年(1733)に室積浦で大火があり、このとき山車も焼失したが、宝暦7年(1757)復造して今日に至っている。特に宝暦年間(1751~63)、宮ノ脇に萩藩が撫育局や御蔵会所を設けた時期には隆盛であった。踊山は文化年間(1804~17)に造られた。台上を舞台として民俗芸能が奉納されるため、踊山と称される。
例祭は現在でも9人の頭屋(九頭)によって執行される。山車は各所有自治会で組み立て、午後2時半頃山車の曳き立てを始める。先頭の台若と最後尾の踊山には山やま 宰領さいりょう が乗り込み、木遣り唄と共に、山宰領の振る御幣に合わせて曳き廻しされる。お旅所では神社の形態に山車を並べ、神官による祭神の儀式が行われる。
神社の形態を整えた山車を曳くのは全国的に見ても特異である。祭礼には決まって「おとも船」が供奉するが、これは宇佐本宮還御の古式ゆかしい風習を現代に伝えるものとして注目される。
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| ■周防猿まわし |
市指定無形民俗文化財 |
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●指定年月日 平成16年9月3日
●場所 光市浅江七丁目18番25号(周防猿まわしの会)
猿まわしは、すでに鎌倉時代に記録され、江戸時代には多くの猿まわしの集団があり、長州藩では門開きといったが、一般的には門付けとして正月の年中行事の一つであった。
長州藩では猿まわしのことを猿引と呼び、その多くの集団は周防国の熊毛郡・都濃郡に集中し、当地方では猿舞師といったが、全国的に猿回しの名称が一般化された。
明治、大正、昭和初期と国内の津々浦々にある広場の辻芸を「バタ打ち」、「門付け」の一軒一軒廻りを「ドカ打ち」、小集団で全国を廻ることを「上下ゆき」といった。目的地で二・三人が一組となり「ヒコやり」と称する猿まわしをし、同行の妻子は整髪料の鬢(びん)付け油として椿油を売り、多くの人々を楽しませてきたが、車社会の出現等によって次第に衰退し、昭和38年(1963)に消滅した。その後、個人で昔の猿まわしの芸を思い出し、近代猿まわしの仕込み(調教)の技を伝え、現代の猿まわしはその教えを忠実に実践し、昭和52年(1977)12月「周防猿まわしの会」の結成により復活されたもので、伝統芸能、民俗芸能である「猿まわし」の技と芸が保持・継承されている。
「周防猿まわしの会」は、光市を拠点に熊本県阿蘇と山梨県河口湖に劇場を開設し、多くの芸人と芸猿が伝統芸能を後世に残そうと活動を展開している。
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| ■室積台場(2基) |
市指定史跡 |
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●指定年月日 昭和51年7月14日
●場所 光市大字室積村字普賢山2601番1
幕末における対外情勢の緊迫に際し、長州藩は北浦地方に続いて瀬戸内の海岸の防備を急務として、室積・上関・室津などの要衝地には大砲を備え、時々発砲演習を実施するように命じた。
台場は外敵の侵入に備えて大砲を備え付けるための施設で、萩市の菊ヶ浜土塁が女(おなご)台場として広く知られているが、これよりも早く長州藩では、弘化4年(1847)5月幕府から大砲設置の許可を得て、室積の象鼻ケ岬に台場を築造している。
弘化5年(1848)佐藤作左衛門『書礼控』(山口県文書館所蔵)の御手洗湾絵図には、室積の台場3台が見える。
台場の規模は安政年間(1854~59)の『郡中大略』(山口県文書館所蔵)によると、「大砲台輪一ケ所但三台、高一間七尺五寸、上り一間、土台二間宛之事」とあり、今日のメートル法でいうと、高さ4.07m、上部1.80m、土台3.60mの四角錐台形石塁である。『大砲台場?(だ)石垣図』(山口県文書館所蔵)があり、?は四角錐台形石塁のことで、敵からの防御の玉避けのものとされている。ここに現存する台場は、台風による大波にさらわれ数度崩壊したが、周辺に散乱した土石を集め2台を復元したものである。
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| ■向山文庫(23.19平方メートル) |
市指定史跡 |
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●指定年月日 昭和51年7月14日
●場所 光市大字立野1011番地
立野の島田川支流、束荷川沿いに旧難波家があり、その邸内に「向山文庫」の額がかかった土蔵がある。近くには創設者の難波覃庵(たんあん)翁(1811~88)の顕彰碑が建てられている。
江戸時代この立野村は、長州藩寄組清水家代々の一郷一村知行地で、その次席家老職にあった難波周政(かねまさ)(覃庵)は領地内に私塾養義場や慕義会などを設立し、郷土子弟の教育に努めた。
元治元年(1864)禁門の変の責任で、藩は俗論派政府の主張で福原・国司・益田の三家老に切腹を命じた。また、この事件に関与したとみなされ、立野村で蟄居していた家老の清水親知も萩表に呼び出され、切腹させられた。
その後、難波周政(覃庵)は清水家に伝わる書物に自家所蔵の書籍を加え閲覧公開をするため、明治16年(1833)には新たに 2階の建物を建て、清水親知の法名「仁沢院殿向山義雄」に因んで『向山文庫』と名付けた。文庫の文字は三条実美の書で、下方の「仰高」の額は 長州藩主毛利元徳の筆である。
広さは2間×3.5間(23.19平方メートル)あり、文庫内の中央正面には祭壇を設け、孔子と親知の木像を安置した。同41年(1908)には一般への開放と同時に、県立図書館の巡回文庫を借り受け、利用に供するなど積極的な動きも見られたが、年々活動が停滞し荒廃がひどく文庫を閉じた。
閉鎖後は書籍の一部を県立図書館へ依託したが、山口県文書館が設立されたため、その書籍は文書館に移動し、さらに昭和 55年に光市文化センターに寄託された。
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| ■岩屋古墳(1基) |
市指定史跡 |
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●指定年月日 昭和62年4月16日
●場所 光市大字室積村1013番1
古墳は標高約50mの御手洗湾を望む急崖上にあり、墳丘は直径約12m、高さ約3mの円墳である。南東に開口する横穴式石室は西片袖型で、全長7.90m、玄室長さ6.06m、奥壁幅2.35m、奥壁高2.40mを測る。
石材は花崗岩を主としており、下段の石は比較的大きく、形も整っているが、他は不揃いである。早くから開口していたものらしく、副葬品は須恵器片が若干現存するのみで、詳細は不明である。石室の構造から6世紀後半~7世紀初頭の築造と考えられる。
岩屋古墳は立地条件からみて、海を生活基盤とする集落の族長家族の奥津城であろうが、集落関係をいうならば、岩屋集落の歴史は少なくとも6世紀後半代まではさかのぼれることになる。
石室崩落の防止策を講じているが、現在市内で確認されている古墳の中で、原型を保っているものは他になく、貴重である。
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| ■阿曽沼氏墓所(21.224平方メートル) |
市指定史跡 |

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●指定年月日 平成18年1月25日
●場所 光市大字塩田255番地(佐田八幡宮)
この墓所は佐田八幡宮境内に隣接する同社裏山の中腹にある。
阿曽沼氏は安芸国(広島県)南岸地方の小国主だったが、毛利氏に従って関ヶ原の戦に出兵した。その後、阿曽沼元郷は毛利氏とともに周防国入りし、熊毛郡塩田村佐田、生野などに計1400石を宛がわれた。うち佐田が314石と最も多く、本拠を構えたと考えられる。
領内に鳳庵寺を創建して菩提寺としたが、鳳庵寺は寛文9年(1669)に正心寺(平生町大野)と合併して常春寺と称し、新たに阿曽沼氏の香花所となった。そのために旧鳳庵寺は荒廃し、からくも宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基などが残っている。
宝篋印塔は玄鳳塔と妙春塔で、玄鳳塔は慶長6年(1601)に急死した阿曽沼元郷の墓塔と推定され、妙春塔は慶長16年(1613)に亡くなった元郷の二女と推定される。
両塔とも基壇上に基礎、塔身、伏鉢、請花、相輪の順に各部を重ねているが、笠石部分を欠いているため、宝篋印塔独自の優美さは見られない。笠石を欠いた高さは玄鳳塔が117cm、妙春塔は115cmで、両塔は287cmの距離を置いて建っている。石質はともに安山岩である。
毛利氏の上級家臣、阿曽沼氏の関連史料として、また、大和地域の近世初期の給領主の痕跡として歴史的にも貴重であり、史料的価値を有している。 (上・玄鳳塔 下・妙春塔)
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| ■森様社叢 |
市指定天然記念物 |
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●指定年月日 昭和58年7月26日
●場所 光市大字室積村1483番
室積の中心街から大峰峠へ出る坂道沿いに、森様と称する高い木の茂った一角がある。以前はこの森に古い社があり、村人は五穀豊穣と家内安全を祈願したといわれている。
716m2の旧境内には、ムクノキとクスノキの大木が各3本と、ソメイヨシノ・ヤブツバキ・イヌガヤ・シュロなどと共に、暖地性の羊歯植物ホソバカナワラビも生えている。ムクノキは最も大きいもので、根回り7.12m、目通り幹囲 3.95m、高さ約23.0mと巨木で、樹勢もきわめて旺盛である。ムクノキはニレ科の落葉喬木(きょうぼく)で、関東以西では各所に見られるが、森様のものは、光市内でも稀に見る大木である。他の小中の樹木と同様に社叢(しゃそう)内の乾燥や直射日光を防いでいることから、これらの樹木を一緒に保存することは、社叢全体の植物のために重要である。
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| ■牛島のタブノキ |
市指定天然記念物 |
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●指定年月日 平成21年2月17日
●場所 光市大字牛島字東70番1
一見して森のようにも見えるが、これは一本のタブノキである。現在は光市の所有であるが、かつては牛島の所有であり、島民のこの木に対する信仰心は厚く、いつでも注連縄が巻いてある。
根元に荒神様が祀ってあり、常に新しい花が活けてある。タブノキは荒神様と一体となって信仰を集めている。
枝張りは東約7.0m、西約6.5m、南約6.7m、北約9.6mを測る。平均約7.5m。北側の枝がやや長いがほぼ均等である。平均枝張の樹高比は7.5÷10.2=0.74で、安定している。更に各枝張りの先端枝は東・西・南枝では地面に0.3m~1.0mにまで迫る。
古木であることから、以前に雷や台風などに何回か襲われ、損傷を受けたと言われているがよく回復している。西側の枯幹にハゼノキの種子が落着し、それが大きく成長している。
古くから島民に愛され、その大きさから島外の多くの人にも知られていた。牛島のタブノキは目通りが3幹になっていて、単幹のものと直接比較はできないが、県下の他の大木と比較すると、著しく大きいことが分かる。また、樹形なども極めて良く、樹勢も良い。
タブノキ - クスノキ科
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