伊藤公が歩んだ軌跡

更新日:2020年03月02日

伊藤博文の写真

松陰曰く「利助亦進む、中々周旋家になりそうな。」

 吉田松陰は、伊藤公の資質を「周旋家」つまり、「事を為すために立ち回る人物」と見ました。伊藤公は誰につくべきかを本能的に知っていたと言われています。伊藤公は高杉晋作、井上馨、木戸孝允(桂小五郎)を尊敬し、共に行動しました。

後に初代内閣総理大臣になる伊藤公は、そうした人間関係を背景に着実に出世の階段を歩んでいったのです。 そのような伊藤公を、松陰は出会った時からすでに見抜いていました。

生い立ち

 天保12(1841)年9月2日、熊毛郡束荷村(現・光市大字束荷)に生まれた伊藤公(幼名・林利助)は、9歳で萩に移るまでこの地で過ごしました。 地元には、負けず嫌いで利発な少年利助のエピソードもいろいろと残っています。

 伊藤公記念公園内には生家が復元されており、産湯の井戸や伊藤公が登って遊んだと伝えられる柿の木の二世などもあり、 幼少時を偲ぶことができます。

維新志士の一人として

萩に移ってからは、松下村塾で高杉晋作や木戸孝允らと共に吉田松陰に学びました。 その後、討幕運動に加わり、高杉晋作らと英国公使館焼き討ちに参加しています。 また23歳のときに井上馨ら4人とイギリスへ渡りロンドン大学で学びます。

伊藤博文のイギリス留学時の写真

「長州ファイブ」と呼ばれた若き志士たち(上段右端が伊藤公)

「長州ファイブ」と呼ばれた若き志士たち(上段右端が伊藤公)  「長州ファイブ」と呼ばれた彼らは、イギリスで日本の近代化のためのヒントを吸収しました。 留学から半年がたって、長州が外国船砲撃を企てていると知った伊藤公は、砲撃を止めさせるため井上馨と共に帰国。 砲撃を止めさせることはできませんでしたが、四国連合軍との講和会議に通訳として出席しました。

新しい国づくりに力を尽くす

 明治維新後は、兵庫県知事、法制局長官、参事院議長など、明治政府の要職を歴任し、明治18(1885)年、内閣制度が創設されると、初代内閣総理大臣に就任し、計4回その職を務めました。

 その後も枢密院議長として大日本帝国憲法の制定に関わり、近代国家の礎を築きあげる重要な役割を果たしました。また、すぐれた外交手腕を発揮してアジアにおける日本の地位の向上にも力を尽くしました。

 そして、明治42(1909)年、枢密院議長に任じられ、視察に赴いていたハルビン駅(現・中国)で狙撃された伊藤公は、69年の生涯を閉じました。

この記事に関するお問い合わせ先

伊藤公資料館
住所:〒743-0105 光市大字束荷2250番地1
電話番号:0820-48-1623

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